おい3

先日の記事の続きです先に前回の記事を読んでもらうと意味がわかります。

老いると一般的にいわれる、肉体の機能の低下を経験することで、人は豊か幸福になっていきます。
(今回の老いのはなしに、私はまだ30代ですから、それほどの老いを体験しているわけでなく、頭の中で考えているだけです。80歳、90歳の方が読んでくださって、そんなことないさ、と思われるかもしれませんが一応最後まで読んでくだされば幸です。)

若いころは当たり前のようにできたことができなくなった。体がうごかなくなった。物忘れがひどくなった。自分だけの力で物事ができなくなった。
自分だけの力でものごとができなくなると、どうなるのか。自分の存在というものがどういうものなのか、それを理解できるようになるのではないかと思います。

自分は自分だけの力で生きているわけではない、自分の力で存在しているわけではない。自分以外のものによって生かされている存在であることが理屈でなく感じることができるのではないかと思います。
生きていくためには食べなければいけません。お米にしても野菜にしても、お魚やお肉でも、その命をいただいて自分の命が生かされている。自分が今生きている、そのことの内側には自分以外の数限りないものの働きがあるってことです。
自分ひとりでなんでもできる、若いうちはそう錯覚してしまい、自分と自分以外の世界をわけて考えてしまいがちです。でも実際には自分の存在はこの世界の一部です。
地球という星があり、山があり川があり、木が生えているし、魚がいて、鳥もいる。人間、自分だけが特別な存在ではなく、自分も大きな大きな世界の中の小さな一部分であること。

自分は広い広いこの宇宙・世界の中の、小さな小さな存在ですが、でもその自分の存在はこの大きな世界の一部である。ということは世界と一体であるということですから、自分も大きな存在そのものでもあるということです。


そういうことがわかってくるのではないかと思うんです。
人は生まれてから死ぬまでずっと、初めてのことを経験しつづけるわけです。30歳になったときは初めて30歳を経験するわけですし、60歳になったらそれも初めての経験、90歳になったらそれも初めてです。
成長とはどれだけのことを経験したかだと前回書きましたが、まさに成長しつづけるわけです。(本来は)
歳をとっていくことが、成長となるのか、衰退となるのか、それは自分の内面、内側の状態がどのようになっているかにより違うのだと思います。



神様とは目で見えるものではありません。これは今も昔もかわりません。
太古の人は神は畏れ多い存在であるので直接見るようなものではない。だから神社にはお寺にある仏像のようなものはありませんでした。ご神体には鏡であったり、剣だったり、勾玉だったりします。

ただ、仏教がインド、中国から日本に入ってきて、お寺ができ仏像ができてくると、その影響をうけて神様も人の姿で表現されるようにもなりました。仏像と同じ言葉で表現すると神像というものです。
日本で最も古いといわれる神像に京都の松尾大社にある神像があります。この神像は翁(おきな)、要するに老人の姿をしています。

この神像だけでなく、書物などに登場する神様は翁の姿であることが多くあります。普通に考えると力強い、若々しい姿になりそうなものですが、老人の姿をしていることも多いのです。
なぜなのか。

・・・長くなってしまいました。あと1回だけつづく



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