き 最終話

昨日からの続きです。昨日の記事を先に読んでくださると意味がわかります。
昨日の記事の最後で「死」が「ケガレ」だということを書きました。しかしこれは現代人にとってはなかなかピンとこないのではないかと思います。
生きている間、大切だった人、それが死んだらケガレた存在になるのか。死んだ人をケガレたものとして嫌うか?死んでしまっても大切な人にはかわりない。大切な人が死んだから、それによって自分がケガレるというのか?と
なのでケガレについて最後に書いてこのシリーズを終わります


ケガレとは罪や穢れというように、不潔、不浄というような意味です。ニュアンス的に。漢字でかくと同じになりますが汚れ(よごれ)と汚れ(けがれ)の違いは、ケガレは物理的によごれているとくことでなく、内面、精神面などの不潔、不浄をいうものです。

神道、神社は清浄をもっとも大切にしますから不潔、不浄は徹底的に祓い清めます。神社では何かするときには必ずお祓いをしますが、神様にお供えする物や、神様の前に行く人に、不浄なもの、あるいはケガレのない状態でなければいけないからです。
たとえば神主にも祭典が近づいてくると禊(みそぎ)潔斎(けっさい)があります。神社に篭もり外界との接触を絶ち、食べるものを制限したり、水や塩で身を清めたり、いろいろあります。
神社へお参りするとき、手水舎で参拝前に手や口をすすぐのは禊祓い(みそぎ)の簡易版ってことです。
では、それほど遠ざけないといけない「ケガレ」とはそもそもなんだという話し。これが現代人にはなかなかわかりにくいと思いますので、私が自分で一番わかりやすいなと思う説で以降説明します。(これが全てではなく、一説です)

穢れ(ケガレ)とは、気枯れでもあります。気が枯れる。
気=ケ、に関してはこれを深く考えていくと「ハレとケ」の話しになってきて、ちょっと長くなりすぎるので省略して、ここでは気(ケ)とは、元気の気や、気功とかの気、エネルギー、とか活力とか、生命力、そんな意味と思っておいてください。
だから気枯れ(ケガレ)とは気が枯れた状態、ようするに自分のエネルギー、元気、活力が低下した状態であり、普段の状態を正常とすると、気枯れは清浄(正常)ではない状態といえます。

たとえば神社へ参拝する、神様の前に行くときとは最上の敬意をもって接するものです。普段通り・正常(清浄)な状態でないのにそれがきちんとできるのかといえば、やっぱりできにくいはずです。心ここにあらず、になってしまいます。
だからケガレがなくなって、正常(清浄)な状態に戻って、きっちりと神様と向き合えるようになってから神社(神棚も同じ)へ参りましょうということです。


最初のはなしに戻って、死=ケガレについて。生きている間、大切だった人が死んだらケガレた存在になるのか。をこれで説明すると、死んだ人がケガレている訳ではなく、「死」そのもの、「死」という状態をケガレといいます。人が死ねば自分で生きる力、生命力はなくなります気は完全に枯れた状態ですから気枯れ(ケガレ)です。
それで身内の死に接することで自身も悲しみ、動揺し、元気がなくなり、普段通りの正常(清浄)でなくなるから気枯れる(ケガレ)。そんなことなんです。
この説明だとわりと現代人にも理解しやすいと思うので私はいつもこのように話しています。



先日までにコメントで関連質問もありましたのでついでに書いておきます。
Q:子供を産んだばかりの女性はケガレていると言われる神社がありました。これはなぜか?
A:死のケガレと同様に、血のケガレというものもあります。これは血そのものでなく「出血」のことです。大量に出血することにより気枯れになるのはすぐに理解できます。出産にともない出血していますから、産後間もない女性が参拝を遠慮するよう言われるのは、身内がなくなったあとしばらく遠慮するのと同じ理由です。出産によって激しく消耗して正常(清浄)でないということ。


Q:忌中でも参拝(祈ること) などをしなければ 鳥居はくぐってもいいのでしょうか?たとえば境内の通り抜けのために。
A:記事本文で書いたとおり鳥居をくぐること自体がいけないのでなく、参拝することを控えましょうということです。本来神社は境内を通り抜けをするものでなく参拝するものですから、原則のはなしをすれば、それもしばらく遠慮しておきましょうとなるでしょう。
これは理屈の話しではなく礼儀というかその人のモラルというかセンスの話になると思います。

「境内の通り抜け」については、「境内」を通らせてもらっていると思っている人は、神様へ一礼したりすると思います。この一礼を参拝というのかという話しですね。
「境内」をただの「通路」と思っている人はたとえ社殿の前を通過するにしても素通りするでしょう。この場合は参拝しないのだから、忌中でも問題ないとも思えそうですが、人間にたとえると挨拶もなしで人の家の庭を横切るようなもんでしょう。そもそもそれってどうなのって感じです。
あとはその人のセンス、感覚ですが、もし親が亡くなった翌月に新年会に誘われたとしても、そういう場へ出るのは控えるのではないでしょうか。それと同じような感覚で、神社参拝(神社へ行くこと)は50日控えるというそれがあるのだから、あえて神社の境内へ入るのは・・・
それら全てひっくるめると、しばらくは通り抜けも遠慮しておく、というのが普通(私の思う普通)の感覚ではないかと思います。

もちろん「通り抜け」という行為そのものがいけないといっているわけではありません。地元の人にとっては生活の一部になっているってことでもあるし、親しみがあるということにもなると思います。神社をどのようにとらえているかってことですね。


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コメント

丁寧な説明

初めてコメントします。

わかりやすい説明で、私自身も勉強になります。

2011/02/14 (Mon) 23:22 | 堀江 知行 #- | URL | 編集
ありがとうございます

無知な私の質問まで取り上げて頂き、恐縮です。 ありがとうございました。
 いつもながらに、とってもわかりやすく、「あぁ~なるほどぉ~」と、すんなりと頭に入り私なりに理解する事ができました。

人の死。私も職業柄(実は看護師)人の死とは、避けて通れない身でありまして.....常々いろいろと考える事があります。
今回の死とケガレに対してはとても興味というか、さらにいろいろと考えさせていただきました。

いつも解りやすい説明、楽しい記事、ありがとうございます。
これからもチョクチョクこまめに勉強させていただきに参ります(*注* 決して怪しいストーカーでは、ありませんから...(-"-) )

2011/02/14 (Mon) 23:48 | ピサちゃま♪ #- | URL | 編集

はじめまして。

「死」と「穢れ」の関係、分かりやすいご説明で理解できました。
宗教的な話はどうしても難しい本が多いのでこうした分かりやすい説明はありがたいです。
ところで何で50日なんでしょうか? 実はキリスト教も50日という区切りがあるので不思議に思いました。

2011/02/15 (Tue) 08:48 | take1960 #mCZlqnv2 | URL | 編集

父が亡くなったとき、
初詣は控えるようにと母に言われたことを思い出しました。
母の実家は元、神主だったそうな・・・

今、民俗学の本を読んでいるのですが、
そうなんです、
仰ることそのままが書かれていますね。
とても面白いです。
民俗学は学校でもやるべきだと思います。

2011/02/15 (Tue) 19:16 | 阿修羅王 #QmhNi1cU | URL | 編集
こんにちは。

こういったこと、あまり見かけないので
とてもおもしろいです。
なんか、勉強になります。

2011/02/17 (Thu) 00:25 | 伯爵のたわむれ #GWPe1KiE | URL | 編集
堀江知行さま

書き込みくださりありがとうございまうす。
いえ、専門に知識を持っている方がみるとなんだこれは、と笑われそうなブログですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2011/02/17 (Thu) 18:42 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
take1960さま

はじめまして。書き込みくださいましてありがとうございます。
えぇ、どうしても難しくなってしまいますし、そうなると人は読まなくなりますから、私のところでは、内容は薄っぺらくても読みやすい。というのをこころがけています。
キリスト教も50日という区切りがあるのですか。もしかすると世界の各地の宗教を調べてみると50日というのが多くあったりするのかもしれませんね。人間の生活?精神?のサイクルに50というのがあるんでしょうか。
ちょっと調べてみようかな・・

2011/02/17 (Thu) 18:46 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
阿修羅王さま

そういう家系ですといろいろ習慣というか、家庭のしきたりのようなものもあるかもしれませんね。
学校でもやってほしいと私も思います。自分たちの文化、ルーツを知ることにもなり、絶対よい影響があると思うんですけどねぇ。

2011/02/17 (Thu) 18:48 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
伯爵のたわむれさま

なかなかふれる機会がすくないとおもいます。
で、ややこしそうで、というイメージがあるのでみなさん敬遠されます。
なので解りやすさ、読みやすさをもっとも気をつけています。
その分内容がうすっぺらいものになってしまっているんですが・・・

2011/02/17 (Thu) 18:50 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
ピサちゃま♪

理解してもらえたならよかったです。
なるほどお仕事でよく接するのですね。接する機会が多いと自然とよく考えるようになりますよね。
怪しいストーかー・・(笑)大丈夫ですよ。

2011/02/17 (Thu) 18:53 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

ほかの宗教の教義とかとの比較には興味があります。特に神道は、日本の宗教ですから一層です。
色々とお教えいただければ幸いです。
ちなみに、キリスト教の50日はペンテコステ(聖霊降臨)といいます。

2011/02/17 (Thu) 22:15 | Take #- | URL | 編集
takeさま

ありがとうございます。私も純粋に興味です。のんびりと時間のあるときに調べてみたいと思います。
しかしこの例以外にもいろいろな不思議な共通点というのは確認できます。宗教以外でもそれはよくありますし。神話などでも世界でにたような話しがあったりしますもの。どこかで発生したものが広がったというわけではなく、同時多発的(正確な表現ではないですが)に発生しているものが。

2011/02/20 (Sun) 18:09 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
昔々・・・

その昔、神様が人々の身近にあった頃。神様は人々の非礼に対しては厳しく有ったようです。

天皇が淡路島に御幸された際、獣と血の匂いを嫌い島神である伊耶那岐大神が祟った。
また、狩に御幸された際、多くの獲物が跋扈するにも関わらず全く獲物が取れず、蕃神すると島神の伊耶那岐大神が現れて我に明石の海底に真珠があるのでそれを奉れば獲物は数多得るであろう云々。(以上は記紀神話)

淡路国二ノ宮。大和大国主魂神社の参道鳥居の遥か海上(播磨灘)を通過する際に拝礼しない輩が多く、その祭神が船人たちに祟りなしたので社殿と参道の向きを海に面しない現在の方向へ移した云々。
(大和神社より勧請。祭神は倭大国魂大神。しかし、中世~近世には長らく伊弉諾大神と伊弉冉大神とされていました。また、真北には神功皇后有縁の高砂神社(事代主神。境内には「尾上の松」と「姥尉神社」))

我が地元(淡路市)には月の山と言う所があり古い千手観音様(月の山観音様。別名、花降らせ観音様)がおわします。

この観音様、往古には山上に在って御前の海からも光り輝く様のが分かるほどで、拝礼せずに航行する船(帆船)をよく止めて船人を困らせたので、
お祀りする場所を御前の海が見えないやや下の現在の所に移し参らせた所、船止めが無くなった云々。

2011/04/05 (Tue) 16:40 | たぬき #EvmDRqhQ | URL | 編集
たぬきさま

神の怒りをしずめるために神社やお寺を建立したりよくありますものね。
昔なら今回のような震災があればまず神々をしずめるために社寺がつくられたりしたのでしょうか。
わたしはそういう神々とともに生きるすがたは決して忘れてはいけないと思っています。

2011/04/06 (Wed) 19:02 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

宮司さんありがとう。ただの通りすがりです。
どーも心虚無で、神道的対処学ぼうかと
虚しくならない アルイハ 気枯れない
心 価値観 思考 感情 思い方
工夫しないとなあー 思ったけど・・・
ワカラン・・・・

欲望の楽しみは塩水を飲む事に似ている飲むだけ喉が渇く
思いやりの心で全て解決出来ると
誰かが言ってたけどうーn
(の、ワリには国を簡単に乗っ取られてるからそうだ!とも思えない)

2015/05/01 (Fri) 00:23 | 105 #mQop/nM. | URL | 編集
105さま

古代ローマのユウェナリスの詩、健全なる精神は健全なる身体に宿る、というやつですね。
それに似ている気がします。

> 欲望の楽しみは塩水を飲む事に似ている飲むだけ喉が渇く

足るを知ることは、満ちているということでもある
と私は思います
そして日々のくらしの中にこそ満ち足りたものがあると。日々のくらしとは神の営みでもあるのですから。て、そのあたりは神道的な思考ですね。

2015/05/11 (Mon) 22:51 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

はじめまして。

子供の頃、仏教は死者を供養するという形になるし、キリスト教は死者の魂が安らかに憩えるようにと祈りをささげるのに、どうして神道は穢れなんていうふうに扱うのだろうと疑問に、そして少し悲しく思ったことを思い出しました。こういう時こそ神に近寄りたくなるものなのかもしれないのに。
でも、この記事を読んで、ほんのちょっとだけ神道の考えに触れることができました。
でも、新たに疑問もわいてきました。
神社は、汚れをはらう場所であるけど、清浄な場所でもある。
悪霊や厄年は払うけど、死の穢れは払わないで避けるのはなぜでしょう?そして、死者の平安や冥福を祈るという発想が薄い気がするのはなぜ?(薄学な私が知らないだけだったらすみません)
よろしければ教えてください。

2016/03/18 (Fri) 00:52 | シラカバ #- | URL | 編集
シラカバさま

少しでも神道の考えに触れていただくきっかけになれたらならそれはうれしいことです。

疑問について、コメント欄ですから長い文章はうてませんが、
> 神社は、汚れをはらう場所であるけど、清浄な場所でもある。
> 悪霊や厄年は払うけど、死の穢れは払わないで避けるのはなぜでしょう?
死の穢れも当然祓います。たとえばお葬式の後等は祓いは必須です。神社に戻るのは必ずお祓いの後です。
ここ誤解ないようにして頂きたいのが、死者を祓うのではなく、死の穢れを祓うということです。

あと、わざわざ神様の近くに穢れを(死の穢れ以外も)持ち込む事は避けます。ただ必要があればきちんと手順を踏んだうえで(祓いの後に)神前に進めばよいのです。それがダメなわけではありません。

>死者の平安や冥福を祈るという発想が薄い気がするのはなぜ?
薄くないですよ。亡くなって10日、20日、30日、40日、50日、100日、1年、3年、5年、10年・・・50年・・・100年、とそれぞれお祭りをします。仏式でいう供養ですね。これは発想が薄いどころか、かなり手厚いと思います。少しご質問とずれるかもしれませんが人(つまり死者ですよね)を神として祀ることもありますね。

まとめて、一言でいうなら、仏式やキリスト教式の、死者を供養や安らかに、と願うそれと全く同じですよ。穢れという概念と、故人の供養、安らかにと願う事は全然違うものですね。

2016/03/21 (Mon) 18:10 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

気が枯れるのが穢れなら、何故病気や精神障害の人も男性なら禁忌に触れられるのでしょうか、もうすぐ死にしそうな高齢者は穢れじゃないのでしょうか、理屈には合ってるのでしょうか。
妊婦は、気が二人分なので、一般の人より歓迎されてもいいのではないでしょうか。手水舎のひしゃくは、大勢の人が触ったあと除菌もしないで、ただ水洗いじゃ不潔ですよ。後で除菌シートで手を拭いた方が、神様は清浄だとお思いになりますよね。神社に参拝に来てた女子高生が、手水舎の水を飲んでお腹を壊したと言ってました。大勢の人が触る溜め水はすぐ汚れそうなので、お水を溜めてる所は、水がすぐ交換されるように常に大量の水が流れている状態にして一日に何回も洗ってくださいね。女の子が飲んでお腹を壊すような水が手水舎の水だったら神様もお怒りになるのではないでしょうか。

2016/05/09 (Mon) 12:55 | ニン #- | URL | 編集
ニンさま

コメント確認しました。これは質問・・なのでしょうか?
何をお聞きになりたいのかが私がうまく理解できなく、どう答えていいものかわかりません。すみません。

>なぜ男性なら禁忌に触れられるのでしょうか
気が枯れるのには男女は関係ないと思いますが、どういう意味なのでしょうか?

ほかの部分は女性にたいして厳しいのではないか、ということをおっしゃりたい?

質問ということでしたらお答えしたいと思いますので、ご希望でしたらもう一度質問内容を記載していただけますでしょうか。よろしくお願いします。

2016/05/17 (Tue) 22:42 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

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