本質は

昨日からの続きです。はじめての方は昨日の記事を先に読むと意味がわかります。

最近はやりのパワースポットで写真を撮り、それを携帯の待ち受け画面にしておくことで運気上昇、開運バリバリ、というそれ。しかし一番必要なことはパワースポットの写真を待ち受けにすることではありません。
なぜかって、運気上昇させてくれるのはパワースポットから発せられるパワーでしょう?待ち受け画面にした写真がパワーを発しているわけではありません。パワーの発生源はあくまでもパワースポットです。
だから必要なことは、パワースポットから発せられるパワーを自分に取り込むことです。パワースポットの発するパワーを自分に取り込んで、そのうえで写真を撮って携帯の待ち受け画面にすることで、取り込んだパワーが持続しやすいとそういうことですね。おそらく。


では、どうすればパワーを自分の中に取り込むことができるのか。
最近の傾向として、こういうときには
「パワーを自分の中に取り込むための10の方法」とか
「だれでもできるパワーを取り込む方法」とか

マニュアルっぽいもの、形式を求めるものが多いように思います。先ほどのパワースポットの写真を携帯の待ち受け画面にする、というのも形式だけを求めるからどこそこ神社の井戸に行列ができる、しかし神社へはお参りしない、というようなおかしなことになるのでしょう。

だから、そのものの本質をとらえることが必要です。とくに目に見えないものの場合はそれが重要です。しかし目に見えないからこそ、形から入る、形式を整える、形式を求めるともいえます。それも重要なことですかから間違いとは言いません。でもそれだとどうしても入れ物だけ立派で中身が空っぽ、なんてことになってしまいがちです。
逆に難しいですが本質さえつかんでしまえば、あとはどんな状況にも対応できます。だからやはり私はマニュアルではなくて、本質を語りたいと思っています。

パワーを自分の中に取り込むにはどうすればいいのか、やり方はいくつもあると思いますが結局のところ一言でいえば、そのパワーの源と自分が一体になればいいのです。自分がそのパワーの発生源の一部となれればいいのです。

もちろん一体になりっぱなしでは元の生活に戻れないわけですから、パワーの源と一体になる、自分がパワーの発生源の一部となるのは一時のことですが、それだけでも人間には充分なのだと思います。
たとえば山の中、大自然のパワースポットだった場合、自分がその一部となったイメージ。体全身でエネルギーを取り込む、大きく呼吸をし、深く吸い、深く吐く。自然のおこなう循環の一部分に自分が組み込まれれば、それはもう自分がパワーの源と一体になれたときでしょう。

というか本来は人間もそれらの一部なのですが、多くの人はそれを忘れています。人間は人間、木や山、川はそれとは別のものと思っています。でも元々は同一の存在だったんですよね。このあたりはいつも書いていることなので省略。以前の記事で短めのもの。
http://jinjakannushi.blog89.fc2.com/blog-entry-629.html


ほかにも先の記事で登場した気功師さんも当社の御神木の前でやっておられましたが(多分)、目を閉じて巨木に触れ、木が大地からエネルギーを枝へと吸い上げるその道に自分も加わるイメージ。大地から根を通して上へあがっていくエネルギーが自分の体も通っていく、自分もその巨木の一部になった感覚。
その気功師さんとお話したときに木からエネルギーをわけてもらうのは午前中がいいということでした。理由もおっしゃっていましたが、それはちょっと違うのではないかなぁと思うのでここには書きません。


一例はこういうことなんですが、目をつむるとか、手を当てるとか、息を何回吸い込むとか、それら形式はそれほど重要ではありません(形が重要なこともありますがこれに関してはさほど重要ではないと思います)。

要するに自分の中に余計なもの(パワーが入ってくるのに邪魔となるもの)がなければ、自然と自分の中にパワーが流れ込んできます。ご利益、ご利益をよこせぇ~とパワースポットに攻め込んでも、おそらくパワーは受け取れないと思います。自分の中にある余計なものが邪魔をして・・・

つづく


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コメント

感想

はじめまして こんにちは
自分がご利益よこせぇ~とお参りしていた姿が目に浮かび、苦笑いしてしまいました。今後はもう少し落ち着いた心で御参りできそうです。神主さまありがとう。

2010/08/20 (Fri) 01:03 | うどんかそばか #- | URL | 編集
余計なもの

お久しぶりです。

先月のお祭りにご挨拶したかったのですが、あの嵐のような大雨に、タイミングを逃してしまいました


私はその余計なものは、"欲"とか、"本能的な感情のままをさらけ出す"、とくに邪な思いではないでしょうか…

"自分さえ良ければ"という考えが神聖なものとは相反しているので、神様と波長が合わなければご利益はいただけないのではないかと思います。

欲にまみれた人間の願望は、神様にとっては逆に押し付けられて、とても困ってしまうものではないでしょうか…

私達の人間関係でもごり押しでくる人には、付き合い辛いですよね。

だから、どこの神社にお参りするにしても、心を無にするようには気をつけてます

2010/08/20 (Fri) 11:18 | さとみっく #- | URL | 編集
うどんかそばかさま

はじめまして。書き込みいただきましてどうもありがとうございます。
苦笑いして気が付いたのならもう大丈夫ですね。お参りする前に深呼吸して心をおちつけるとさらに深いお参りができます。
またどうぞおこしください。

2010/08/23 (Mon) 22:38 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
さとみっくさま

おひさしぶりです。急に嵐になりましたものね。私実はあのとき外におりまして、もうすぐご一同さんが神社へこられると急いで帰るところでしたのですが、ワケありであの嵐の中びしょぬれで帰ってきました。

欲も本能的な感情も決して悪いものではないのですが、それが何とセットになるのかによって具合が悪いものにもなることがありますね。
心を無にするように気をつけておられるのはすごい。それができればすごいですよ。人間それが自分ひとりではなかなかできないので神様のたすけが必要になるのですよね。心を無にするために神の力をかりて、神の力を借りるために心を無にして。
おぉぉこ、これは難しい・・・となりますね


2010/08/23 (Mon) 22:45 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

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