民族によって髪の色が黒かったり、金色だったり、瞳の色が黒かったりある程度遺伝的なものがありますが、それと似たようなものと考えられるのではないかと思います。
民族性とか国民性もこういうものの一種ともいえるのではないかなぁなんて思います。
これらはもちろん全ての人に当てはまるわけではないですし、育つ環境などで後から形成されることも多いので記憶と遺伝と同じように話すことはできませんが、それでも似たものだと思います。
実際にはみたことない風景であったとしても、なんとなく懐かしいなと思える景色。日本の原風景なんていわれるような風景は、理屈抜きで懐かしく感じるのではないかと思います。私も実際にはそういう風景を子供の頃に見て育ったわけではありません、私の子供の頃には私の住んでいるこのあたりはビルが多くある場所でした。でもやっぱり日本の原風景なんていわれる風景をみると懐かしく感じます。いや、ほっとしているのかな?
それから人間が自然に癒されるというのも理屈ではないと思います。山に入って緑にかこまれて落ち着くのも、波の音を聞いて落ち着くのも遠い記憶となにか関係があるのかもしれません。
デジャヴ(既視感)は実際には行ったこともない場所に初めて来たのにすでに来たことがある、知っていると感じること。初めてみるはずなのに、以前に見たことがあると感じること。こんなのももしかすると記憶が遺伝しているのかもしれませんね。
記憶するときには脳の神経回路に電気信号が流れるかららしいです。その電気信号が流れる回路が脳にあれば初めて見るものでも記憶にあるものとして再生するようです。好みだとか考え方が遺伝するのであれば脳の神経回路も同じものが形成されやすいのかもしれません。
記録は人間の特有のものです。紙などに文字として残したり、映像としてのこしたり、言葉でのこしたり。これらは形があります。言葉で残す場合には目みえる形ではありませんが音によって確認できます。できあがった一定の形のあるもの。記憶は形になる前のものだと思います。
記録は人間特有のものですが、記憶は生命全てのもつものです。本能なんていうものそうでしょうか。馬は生まれてすぐに誰に教わるわけでもなく立ち上がって歩きます。人間の赤ちゃんも教えられなくても泣いて、おっぱいを飲めます。赤ちゃんが生まれてすぐにおっぱいの飲み方がわかるのも命の記憶と言えそうです。というかそう言います。
私たちは生まれてきて、今いきています。もちろん自分の力でひとりで生まれてきたわけではありません。親やご先祖さまがいてそこから命を引き継いでいま自分がここに存在しています。
たぶん命を引き継いでいるっていうことは、生命としてうまれて今にいたるまでの太古からの記憶もいっしょに引き継いでいるんだと思います。記憶は記録とちがってそれそのものにはっきりとした形があるわけではありません。だから気づきにくいのだと思います。とくに成長してどんどんと新しい知識が脳に入ってくると古い記憶はすみっこに追いやられているのではないかと・・
子供のころは余計なものが入っていないから生命としての古くからの記憶も思い出しやすいのではないかと。
命の記憶を今もう一度思い出すことができればおそらく不安や悲しみ恐れ、嫉妬などまだまだある人間がもつ独特のマイナス要素は一切なくなると思います。
いつもの話しになってしまいますが、命とは自分でつくったものではないですし、どう頑張っても科学的に作り上げることはできない神秘の存在です。でもそれは確かに自分の中にある、ということは命と命の記憶を受け継いでいるのですから。命の記憶を思い出すことはとっても大事ですね。
私たちはそれを神との一体ということばで言い表します。神社でお祭りをするのは神と人が一体となることが目的ですし、神と人が場を共有するためのツールがたくさんあります。
私たちの内側には神様の質が眠っています。今回のはなしでいうところの命の記憶。神社にお参りするのも神様の近くにいって、生まれたてのときなはなかったけれど、今いっぱいこびりついている余計なものを落として、内在する神の質、命の記憶を呼び起こすためですからね。というわけでみなさん神社に行くといいことがありますよ、と強引にしめくくります・・・
具体的にどうすればいいのか、そのへんは今後まとめていこうと思っています。
結局今回のシリーズでは何が言いたいのさ!と感じられたかたゴメンナサイ
うまく書けませんでしたm(_ _)m
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