祖霊祭

本日わたしの父親の十年祭をとりおこないました。
十年祭とは神社の祭典ではなく、個人のお祭りです。仏式でいう七回忌とか十三回忌とかの法事のようなものですが、神道の場合は亡くなって丸1年で一年祭、三年祭、五年祭、十年祭・・・とおこないます。命日は4月8日なのですが、親戚の集まりやすい土日におこないました。
いわゆる葬儀にあたる神葬祭、そのあとに忌明けが五十日祭、1年目におこなう一年祭、このあたりまでは亡くなった方を弔うといようなイメージのものですが、年月が経過して10年くらいになるとちょっと変わってきます。
神道は人と神は別のものではなく、人の延長上に神があると考えています。人が死んだ後は神になるということです。代々のご先祖様も祖先神様として御祀をしますから、亡くなった方もその祖先神と融合して神になります。

今回おこなったような御祭は祖霊祭(それいさい)といいますが、亡くなった方個人のお祭りでも年月が経過してからの祖霊祭は、「弔い」「悲しい」というものでなく、「祝い」というと語弊があるかもしれませんが神様をお迎えしての御祭と同様のはれやかなものになってきます。
葬儀の祭のときは拍手も音を立てずに打ちますが、祖霊祭は通常の神様参りと同様にパァーンと音をたてて打ちます。お供えする水引等も紅白を使うのがよいと私は思います。(ただしよその家庭にお供えする場合は相手があることですので、黒白を使うことが一般的には多いのですが)
とにかくまあそんなことで10年の区切りの御祭をおこないました。
それにしても平成17年の4月8日に亡くなって、もう10年が経ったのかと驚きました。私は父が亡くなって神社に戻りましたから、神社にもどってきてから10年ということなんですね。はやいなぁ・・・

この10年、神主として戻ってきてからかなり足早にいろんなことをやってきましたが(自分が望む望まざるにかかわらず、否応なしに・・・の部分も多々ありますが)10年という一区切りをむかえてなにやら感慨深いものもありました。
みなさんから「神社がよくなった」と言ってもらえることもいろいろありますが、若気の至り的なこともありますし、思いだすと恥ずかしくて顔から血がでるようなこともあります。

私は神社でうまれて育っていますので、境内が遊び場で、神主(わたしの父)が祭典している光景を日常のこととしてみてきて、祝詞が子守唄のかわりに・・・それは言い過ぎです(笑)が、とにかく自分にとっては当たり前すぎてわからなかったことが、他の方の目から見るとすばらしいことなんだ、ということも多々あってそれらをまわりの方に教えてもらいながらやってきました。

その点がすごく重要なところだと私は考えています。つまり神社・神主のひとりよがりにならいないようにすること。
神というものは人がいてはじめて存在するものです。
逆もまた然り、人は神が在るからこそ存在するものでもあります。
車の両輪でどちらもあってはじめて成り立つものです。

それは神として捉えるのは人だから、なんですね。大いなるもの、偉大ななにか、宇宙の成り立ち、真理、宇宙の始まり・起動させるための力とか、一番最初の生命が誕生するときに作用した力とか、とても人には計り知れないようななにか。

それらは人にはとても計り知れないものですからなんのことかわかりません。全くわからないものを人が捉えよとすると、自分たちのわかるものに置き換えないとできません。だからそれを神ととらえています。
人が今存在するのは初めての生命が誕生したからであり、宇宙ができたからであり、その私達には理解できない力から今の私達まで連綿と繋がってきている。さかのぼるとそこにいきつく。人は神とつながっているというのがそういうことなんですが、
先ほどの神、神社だけでは成り立たず、神と人、神社と人がはともにあってはじめて成り立つものなんですよね。だから神社や神主のひとりよがりにならないようにすることが大切なのだと。

あとは忘れてはいけないのは、私たちはみな神様とつながっているということは、どうしようもなく辛く苦しい、孤独、なぜ自分だけ・・・と思うこと人間ならぜったい誰でもあるんですが、でも今ここに自分がいるという事実は神様の力の一部がそこに働いているという事実。これも結構重要なことだったりします。この世のすべてのものの根源の力、それが自分の内側に潜んでいるってことですから。

あぁ、今日はひさしぶりにマジメに書こうとしたら、最初は祖霊祭の話にしようと思っていたのが全然ちがうはなしになってしまった・・・
まあ別にいいんですが。


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コメント

こんばんは。
人の一生というのは本当に短いのに
何故目に見えないものや、果てしない永遠のような概念に思いを馳せるように作られているのだろうかと感じた事があります。
そこに信仰心や、畏怖の念を起こさせる自然などの
自分達よりも更に永く在るものたちへの関わり方のヒントがあるのかもしれないなと思いました。
武信様の銀杏や楠木の方がずっとこの世では私より大きくて年長ですし。

2015/04/05 (Sun) 23:38 | 雅堂 #- | URL | 編集
雅堂さま

> 何故目に見えないものや、果てしない永遠のような概念に思いを馳せるように作られているのだろうかと感じた事があります。
感じるのでしょうかねぇ。自分の本来いたところというか、在るところというか、
個々でもアイデンティティというものが大切におもわれたりしますし、それが個人でなく人すべてに置き換わったら・・・というような感じなのでしょうか。
見たことがないし、よくわからないから、思いを巡らせるのでしょうね。
よくよく考えると本当に800年だの1000年だの生き続けているという事実、畏敬という言葉がぴったりです。

2015/04/11 (Sat) 18:15 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

いつもありがとうございます。

既視感―というか予知夢というか、人間は樹木にくらべ寿命も短いながら、父母がいて祖父母がいて更に御祖様がいるから現在の自分が存分してるので、遺伝子DNAの記憶に何らかの情報は継承されてると思います。そうした体験は多少はありましす。


ところで巷をバッコする油かけの輩は罰当たりですよね。依然落書きの記事がありましたが、用心して下さいね。


私的には、残念ながら意図がわからないです。かっての極左集団の神社放火とか、願掛けか何かで千社札を貼るとか、犬のマーキングとか…なら別ですが


現実が想像力を遥かに越えたところにあるような気がします。歳をとったのかずいぶんと気持ち悪い現象ですね。

2015/04/13 (Mon) 11:14 | ジンジャー #lH9P8MKE | URL | 編集
ジンジャーさま

わたしも、記憶や体験によって得たものなど何らかの情報は継承されると思います。以前にブログにも書いたかもしれませんが。
既視感、予知夢、そういのはそれらの記憶(自分の記憶ではないかもしれないが)によるものなのかもしれませんね。

油をまいている犯人は、落書きの犯人もそうでしたが、理由などないのでしょうね。おそらく意図などわからないのでしょう・・・

2015/04/21 (Tue) 23:04 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

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