水やりに思う2

前回からの続きです。
http://jinjakannushi.blog89.fc2.com/blog-entry-1119.html初めての方は先にこちらをどうぞ

さすらいの気功士さんが、うちの神社のエノキの大木に手をあててその木の大きさに驚かれたはなしですが、
注1、木の大きさではなく気の大きさに驚いた。気功士さんですから「気」ね。
注2、本当はさすらいの気功士ではない。語呂がいいのでそう書いただけ。普通の気功士。

今まで自分はたくさんの巨木をみてきたけれど、ここまですごいのは初めてだとおっしゃっておられました。
それでさらには、これだけの気だと触れさせてもらうのは午前中のほうがいい。午前中はこれだけすごい気のパワーをわけてもらえるけれど、午後からだと逆に大きすぎる気に負けて自分のエネルギーを吸い取られる。とおっしゃってます。
午前と午後で気の流がかわるので、みたいな感じのことでした。


私は気功士ではないし、亀仙人の元で修行したわけではないので(神主としての修業はしてますが亀仙流ではないので)気の流れというのはわかりませんが、でも午後になると木に逆にエネルギーを吸い取られるということはない。と私は思います。
それは自分の経験的にも実際に午後に木に触れてエネルギーを吸い取られることはないし、またいくら考えてもそれはないと思います。
水やりをしていてなぜこれを思い出したのかというと、木に水をやっていて木は水を吸い上げているけれど、水だけでなく土中にある養分も吸い上げて生長するんだなぁ。そんなことをふっと思ったから。
でも、養分も吸い上げているといってもそれは木が土から搾取しているわけではないと思うんです。木と土で循環する関係ですから、エネルギーもまた同じだろうと。人間も木や土と同じく自然界の一部なのだから、その循環の輪の中にいる。だからエネルギーを吸い取られるというのもないと。そんな風に思ってその言葉を思い出していました。


木と土の関係だと一方的に搾取するというわけではないけれど、人間と自然とでは・・・となると東洋と西洋でだいぶ違います。西洋だと(全てそうではないですが)自然は人間が支配すべきものであり、自然から得られるものは人間のために使うのが当然。人間のためにそれは存在するというような、搾取するというのにニュアンスは近いと思います。
日本(東洋)ですと自然とは人間も含まれたものであって、自分たちもその一員であると考えています。自然から得られるものというのは、自分の親から分けてもらっているようなもの。母が子に母乳を与えるような感じかなと思います。分けてもらっている、というような感じ。


母親は限りなく大きな愛情で子供に与えますが、子供がそれを当然と思い搾取し続けるといずれ母親が死んでしまい、子供も自分自身も死んでしまう。
現代は世界中でそれが起きています。森林があちこちで消滅しているし、南極の氷はえらい勢いで溶けているようですし、海水の水位が極端に上がっているらしい。絶滅する動植物は1年間に4万種類もいるらしい。

その原因はすべてではないにしろ人間の影響が大きい、とこういうとそういう科学的な証拠はまだないという意見もあるのですが、普通に考えて人間の影響がないわけがないですよね。
人間の在り方を見直さないといけない時にさしかかっている気がします。
といっても別にむずかしいことではないと思います。とくに日本人にとってはごく当たり前のことだと思います。私達人間は神様の子孫であって、神様とはそれはすなわち私達のまわりにあふれている自然そのものでもある。私達は自然の一部として存在しているということ。外国諸国ではこの辺がすっと理解しにくいようですが、私達はすっと納得できるはずです。

科学技術の恩恵はすばらしものがあるので、それを否定するものではないのですが、過剰なそれを止めるだけでずいぶん違うと思います。便利で快適をどこまでも追及し続けるのか、てことですね。
私も別にたいそうな事をしているわけではないですが、
たとえばうちの神社でも夜には境内に灯りをつけています。社殿の提灯は電気ですし、結構な数あります。ただこれは神様に対して灯りをお供えしているということなのでここは電気を使わせてもってます。ただ外灯としての電気はかなり減らしています。
食品も地元のものを選んでいるとか、だれもいないところの電気つけないとか、食べ残ししないとか、そんな小さいことですけどね。でもそういうのが必要なのではないかと思います。

断捨離(だんしゃり)って有名になっていますけど、単純にものを捨てること、処分することってことがよい、ではないですよね。ものに執着することを絶つのですから、必要以上にものを持たない、ってことのはずです。
今までとおりどんどん購入して、いらなくなったらどんどん捨てて整理する。こう勘違いしてはだめですよね。

私が大切にしているのが「我唯足知」です。
腹八分目ってことでしょうか。・・・ちょっと違うか。
いや、でもそういうことかな。


なんともまとまりのない文章になってしまいました・・・
すみませんご容赦ください。


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コメント

学校で教わった、植物の根から水分を吸い上げ、サイフォンの原理?などで木にまわしていくといわれてましたが、大木ではその原理は応用が利かない。

まさに神のみぞ知る、たかが人間ごときが考え得るようなことではないのに、それをさぞ知っているかのようになっていた自分を思い出します。

未知の物を目の前にして、畏敬の念をもつというのも、やはり人間の中にある神性がそうさせるのでしょうか。
はたまた、依り代として自然に認識してしまうのでしょうか。

なんにせよ、そこにある事自体が驚くべきことであり、有難くもありですね。



あと、あまり自称な方のお話は(といえば御幣がありましょうが)気に留めないことだと思います。

形而上な肩書き、冠をつけてしまう事への違和感を持たない者、あえてそれを付けてしまう者は、

やはりそれなりだという事です。

人の在り方は、本当に人それぞれという事を考えさせられました。
感謝致します。

2013/07/27 (Sat) 15:26 | Wheel of Fortune #- | URL | 編集
ゲノム

いつもありがとうございます。

遺伝子の解読で癌や難病の完治が近い将来来るそうです。これって進歩なんでしょうかね?

逆に後退してるような気もします。上手くいえませんが、神主さんの書いてる文章を読んで、ふと思いました。

あっというまに8月です。♪八月葉月よ来るがよい 憎い八卦見…なんて唄が昔流行りましたね(ケメ)

2013/07/27 (Sat) 21:57 | ジンジャー #lH9P8MKE | URL | 編集
Wheel of Fortune さま

サイフォンの原理というのですか。ちっとも知りませんでした。

まさにそうなんですね。そこに在ることがそれだけで素晴らしく、また驚くべきことであるんですよね。我々はそういうことを畏敬の念とわりと自然に受け入れてきていますから、こういうことを広く伝えていきたいと思います。
これからの時代、世界的に絶対に必要になります。地球規模の問題に対処するために不可欠だと思っています。

2013/07/28 (Sun) 16:45 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集
ジンジャーさま

難病が治ることは医学的には進歩ですよね。
パソコンが普及して、普段から字を手書きすることが少なくなってきたら、漢字がかけなくなってきた。と一緒ですね。
自分がその立場になったら治りたいと思うのは間違いないと思います。
でも、どこまでいくのか・・・
というのは常に考えてしまいます
人のあるべきはそれで正しいか?というのも

2013/07/28 (Sun) 16:49 | 神主 #X.Av9vec | URL | 編集

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