祖霊祭

本日わたしの父親の十年祭をとりおこないました。
十年祭とは神社の祭典ではなく、個人のお祭りです。仏式でいう七回忌とか十三回忌とかの法事のようなものですが、神道の場合は亡くなって丸1年で一年祭、三年祭、五年祭、十年祭・・・とおこないます。命日は4月8日なのですが、親戚の集まりやすい土日におこないました。
いわゆる葬儀にあたる神葬祭、そのあとに忌明けが五十日祭、1年目におこなう一年祭、このあたりまでは亡くなった方を弔うといようなイメージのものですが、年月が経過して10年くらいになるとちょっと変わってきます。
神道は人と神は別のものではなく、人の延長上に神があると考えています。人が死んだ後は神になるということです。代々のご先祖様も祖先神様として御祀をしますから、亡くなった方もその祖先神と融合して神になります。

今回おこなったような御祭は祖霊祭(それいさい)といいますが、亡くなった方個人のお祭りでも年月が経過してからの祖霊祭は、「弔い」「悲しい」というものでなく、「祝い」というと語弊があるかもしれませんが神様をお迎えしての御祭と同様のはれやかなものになってきます。
葬儀の祭のときは拍手も音を立てずに打ちますが、祖霊祭は通常の神様参りと同様にパァーンと音をたてて打ちます。お供えする水引等も紅白を使うのがよいと私は思います。(ただしよその家庭にお供えする場合は相手があることですので、黒白を使うことが一般的には多いのですが)
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そのとき

今日、人間ドックにいってきました。
会社勤めをしていたときに健康診断を受けて以来ですから10年ぶりくらいの検診です。
お医者さんからは一応異常なしといわれましたが、詳細結果は後日送られてくるので異常がないことを願いながら待つことにします。
しかし胃カメラを初めて飲んだのですが、キツイですね。最初は鼻から入れる予定で説明をされたのですが、いざやってみると私の鼻は穴がせまいらしくて小型だけどカメラが通らないということで急きょ口からカメラを飲むように変更になりました。
胃カメラ飲んだあとも鼻とノドと両方とも麻酔がきいているもんだからしばらく唾が飲み込めなかったり大変でした。


さて、今日人間ドックにお昼間からのんきに出かけることができたのは前回記事でも紹介した有能な巫女(秘書)のおかげです。留守のあいだもしっかりと仕事をすすめておいてくれるので私がお出掛けさせてもらえました。

いままでは自分ひとりで仕事でしたので資料など自分だけがわかればよい状態でしたが、複数で仕事するようになるので整理しないといけません。ということで私の使っているパソコンの中を整理しているわけです、そのときに書きかけの文章が出てきました。
いつ、何のために書き始めた文章なのかはすっかり忘れていますが、夏の頃のはなしのようです。途中まで読んでみて思うこともあったので、続きをかいてブログにアップしてみることにしました。
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祝詞作文におもう2

前回からの続きです

言霊(コトダマ)について。美しい言葉には美しい言霊が宿り、悪しき言葉には悪しき言霊が宿るので、美しい善い言霊をいつも発生させ、それに囲まれていると自分にも美しく善い出来事がおきる。悪しき言葉を使っていると悪しき言霊に囲まれて自分自身にもよくない不幸なことをまねきます。
なぜ美しく、善い言葉を普段から使っていると善いことがおきるのかということですが、言葉にだすことでそれが現実の世界で影響を与えていくのは言葉には神様と私達をつなぐ力、神様の世界のチャンネルを開く力がある。というようなことです。

火のそばにいたら温まるし、バラの花の近くにいたら匂う。なにかの近くにいるとその影響を受けるのは当然です。言葉というものは目にみえるものではないので「実体」のないように考えてしまいがちですが、言葉にも実体があります。その実体の部分が言霊の「霊」の部分ですね。

ちなみに目にみえないけれど実体があるというのは言葉・言霊にかぎったことではなくこの世の中にあるありとあらゆるものすべてそうです。目には見えないけれども存在している、たとえば匂いもそうではないでしょうか。なんだかわからないけれど在るから匂うんですよね。匂いについては分子とかそういうレベルで科学的に説明がなされますけど。


ノーベル賞の発表のときにはよく耳にしますが、この世の中のものはすべて分子とか原子とかそういうヤツらから(そういうヤツってかなり適当ですが( ̄∇ ̄)・・)成り立っていて、それらをもっと細かくすると素粒子とかそういうヤツらから構成されているとか。
この世の中のものはすべてそういう目に見えないような素粒子でできているらしいです。
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祝詞作文におもう

2月は1日から4日までいろいろな催しが続いていましたが、神社としておこなう3日の節分祭と4日の初午祭が無事におわりました。
2月17日に1年の五穀豊穣を祈る祈年祭(きねんさい、としごいのまつり)をおこなう神社も多くありますが、うちの神社では2月17日には特別なことはおこなっていません。神主がひとり拝むだけで、五穀豊穣を願うのは5月はじめの春祭りにおこなっています。
そんなわけですのでこれで御正月からの初春の祭事は一段落となりました。

今年は3日の節分祭と4日の初祭と祭りが連続しましたので体が少しきつかったようでもあり、一気におこなって気がはっている期間が集中できてやりやすかったようでもありました。
節分、初午については過去記事でも何度か書いていますので、説明ははぶきます。
右側にあるブログ内検索で「初午」で検索してもらうといろいろでてきます。
http://jinjakannushi.blog89.fc2.com/blog-entry-705.html

↑ここでも説明しているように、2月の最初の午の日が初午祭ですから毎年日にちが違います。2月5日のときもあるし、2月10日のときもあります。節分については立春の前日ですから(ほぼ)3日と決まっていますから、今回はたまたま3日の節分祭とその翌日に初午祭と連続したお祭りになったわけです。


うちの神社の場合は春と秋のお祭りは神主も数人でご奉仕し、大勢の方に参列していただいて玉串を供えて拝礼していただくのですが、節分祭、初午祭ともに、祭典は神主ひとりでおこなっています。節分祭は平日ですが夜におこないますので、最近では祭典をみに来て(参列)いただく方も増えてきました。ありがとうございます。
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新しいなにか

前回の記事のつづきです
もてなす心というのは神様に接する作法ともよくにています。
神前での神主の所作や神様への供え物などにいろいろ決まりがあります。神様に失礼のないように、愉しんでいただけるように、それは最上のもてなしの心と言えます。

たとえば神饌(しんせん)にもいろいろと決まりがあります。神饌とは神様へのお供えもののことですが、お米、お酒、餅、魚、野菜、果物、菓子、などいろいろあります。いろいろ決まりがあったりします。
魚をお供えするときほぼ必ず登場するのは鯛です。鯛は魚の王様なんていわれるくらいで高級なものですし、また「めでたい」ということで縁起がよいのでお祝い、おめでたいときにつきものです。だから最上級のおめでたい神前での祭典では鯛はレギュラー選手です。
鯛のほかにも魚をお供えしますが、よくあるのは鯉です。
この場合ですとお供えする順番は鯛が先、鯉が後となります。もうひとつ前から順番にならべると、お米、お酒、お餅、鯛、鯉・・・と続いていきます。
コース料理でも出てくる順番って決まっていますが、適当に決まっているわけではなく美味しく食べられるように考えて順番が決められていますがそれと同じです。

お魚をお供えする向きも決まっていたりします。
海腹川背(うなばらかわせ)、海の魚は腹を神様に向けて供える、川の魚は背を神様にむけます。板前用語に同じ海腹川背がありますが意味は同じだと思います。海の魚は腹に脂がのって美味しい、川の魚は背が美味しい、だからそれを神様(板前さんの場合はお客様)に向けてお出しすると。
それで魚の頭の向きが神様の方向(中央)に向くようにします。
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御神木の枝2

前回からの続きです
http://jinjakannushi.blog89.fc2.com/blog-entry-1129.html

どんなものにも神様が宿っている。もしくは神様に成り得る素質が宿っている。石や岩にも、火や水にも、鳥や虫にもそれは宿っています。その宿っているものの大きさが違うだけです。普通の木と御神木の違いは神様に成り得る素質がたくさん宿っているかどうか、ですね。そしてもちろん私達人間にも同じようにそれが宿っています。

いつもいう話ですが、人間も木も鳥や虫も、石や水も基本的には同じものですべて神様から分かたれた存在です。生命で考えるとわかりやすいのですが、自分の命は親から生まれた、親もまたその親から生まれた、と順番にたどっていくと一番最初の親はどこからきたのかということに突き当たります。
木が生えるのも種からですが、その種は親木からできます、その親木もまたその前の親木からできた種から生まれた、と順番にたどっていくと最初の種はどこからきたのか?という同じところに突き当たります。
この一番はじめの、はじまりの何か。
「これ、神様の力!」
かたことの日本語みたいな言い方ですが、まじめな話しこの世のすべてのものは例外なくみんな同じ「はじまりの何か」から生まれているわけですから、もともとはみな根本ではつながっているんですね。


今回チェンソーアートでできあがった龍を榎の御神木のすぐ側に安置しているのは、木と枝は物理的には切離れたわけですが、同じく神の御霊をもち本当の意味ではつながっている。そういうことを伝えたいとの想いがあったからです。
そして木と枝が物理的に離れても神の御霊はつながっているということと同じで、私達もまた物理的にはつながっていない他の何かとも、本当はつながっているということを感じてもらいたいそのように思っています。
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御神木の枝

なかなか更新できませんでした。すみません。
ようやく更新できました。で今日はちょっとマジメに書いてみようと思います。

一か月前ですが平成25年8月4日に御神木の枝が折れて落ちてきました。わざわざ平成25年8月4日なんて説明くさい書き方をしているのは後でみたときにいつだったかなぁ、とわかるようにです(*^-゚)b

ものすごい大きさで12~13メートル、太さも私の胴回りよりも太くって、道路に生えているのよりよっぽど大きいのです。
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前回の写真で紹介したときに同じように私の胴回りよりも太くって、で私の胴回りが80㎝くらいで・・・と書いていたのですが、それを読んだ方が「えぇ神主さんウェストやばいですよ」というご指摘がありました。
え?( ̄□ ̄;)!!メタボ?

私、結構な細身体型で、とくにここ最近どんどん痩せてしまってます。もう会う人あう人みんなから「最近痩せた?」といわれますから、もしかしてどこか体の具合悪いんじゃないだろうかと心配していたくらいです。

だから自分がメタボ?と思ったことなかったのですが、ヤバいですよといわれたので、そうなのかなぁ・・ともう一度測ってみましたがやっぱり80㎝。測り間違いではないようですが、測った場所がウェストとは違ったみたいで腰の一番出っ張っている部分、腰骨のところが80㎝でした。
ウェストといわれる部分は76、77㎝くらいでしたからメタボじゃないヨ、と今度その方に丁寧な説明をしてみます。政府も消費税増税や医療費負担増などでも同じくらい丁寧な説明をしないと理解を得られないですよね。

と話が本題に入る前に長くなっていますが、これも久しぶり。
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続心構え

前回からの続きです
お医者様と神道についての会話のなかで祓い、清めについて、
いくら人形(ひとがた)で体を撫でて3回息を吹きかけるという手順の通りにおこなっても「邪魔くさいなぁ・・・」となどと考えながらおこなっていては何にも祓われないのではないのでしょうか?どういうことを考えながら、どういう心構えですべきなのでしょうか。
他の宗教であれば例えば「悔い改めよ」とか指針になるようなものがあるけれど、神道にはそれがないのでどういう心構えでおこなうのがよいのかわからないんです。とおっしゃってました。
確かに。いわれるとおり。私は祓いは当たり前すぎて、そんな視点で考えたことがありませんでした。でそれを説明するにあたって自分の考えが整理できたので、文におこしてみたのがこの記事です。


罪、穢れ(つみ・けがれ)を祓い清めるということなのですが、心構えとしては、おかしてしまった罪について悔い改める、許しを請うというのとはちょっと違います。
ちなみにここからは私の考えかたであり、私の神道です。オフィシャル神道ではありません。
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心がまえ

またまた更新に日数がかかってしまいました。
今日あたりなんとか時間つくって更新しようとは思っていたのですが、やることがたくさんあるなぁ・・・そんなこと思っていたら今日、お参りにこられた方が「いつもブログみてます。更新楽しみにしています」と声をかけてくださいました。「そう言ってもらえるとうれしいので今日更新します」と宣言しましたので、もうこれはなんとしてもやらなければ!と他の用事よりさきに書き始めました。


少し前の記事でも書いているのですが、最近神道についておはなしする機会がちょくちょくあります。私はもともと人様にお話しできるような柄の人間ではないのですが、なりゆきというか流れというか、まぁお話しすることになりました。

数年前にブログをはじめてみて気づいたことですが、文章にすることで自分の考えていることが整理されて、今まで漠然と思っていたこと、考えていたことが
「あぁ、こういうことだったのか」
と自分自身で気づくこと、納得することが多々あり、考えがまとまります。そんなことですのでなかなか更新する時間はないのですがいろいろ書いてます。
まあ最近はそういった自分の考えがまとまる系の内容よりも、日常の話系の話題が多いですが・・


神道についてお話しするというそれのなかには講演のように私が一方向に話をするというものでなく、インタビュー形式とでもいいますが、神道をねたに会話するみたいな形式のものもあります。
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共通意識

前回まで「ことば」に関連して書いたのですが、途中でこれも言いたいなあというのもあったのですが、関連するようでしていないような気もしたので分けてみました。それが今回の記事です。といっても他愛ないひとりごとですけれど・・・


いきなり本題ですが
言葉が人間だけが使用するものである、というのは多分そうなんだと思います。
人は言葉を使うことによって意志疎通をはかったり、気持ちや思い、自分の考えを伝えたりします。だから言葉がなかったらコミュニケーションがとれず(今の)人間社会はなりたたないように思います。(もちろんコミュニケーションは言葉だけではありませんが)

人間以外の他の生き物は(多分)言葉をもたないけれど、(多分)コミュニケーションをとっているのでしょう。動物が群れをつくる場合何らかのものがないと、群れは維持できなないでしょう。コミュニケーションと言っていいのかどうかはわかりませんが、植物がほかの生きもの、蝶や鳥などを頼りにして雄しべから雌しべへと花粉を運び受粉するのもなにか不思議なものを感じます。

そこに言葉を使わずにおこなわれる意思の疎通というか、意識の共有というようなものがあるのではないか、そんなふうに感じます。
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かけちから2

前回からのつづきです

食べることに感謝するということは、単純化すると食べるものを粗末にしないということですし、食べるものはとはすべて命ですから、食べるものを粗末にしないとは必要以上の不要な殺生をしないということですし。
さらに言葉をかえると、どんな命もすべて大切なものですよ。ということだと思います。

動物はほかの命を絶って食べることでしか生きることができません。これは変えることができないことです。だから問題なのは「自分が食べるためにほかの生き物の殺すこと」ではなくて、「自分が食べるものが他の生き物の命だ」ということを忘れていることです。
で、こんなことあえて言うのもバカげてますが「自分が食べるものが他の生き物の命だ」ということを忘れていなければそれだけでいいわけなくて、当然それがわかったならば粗末にしてはいけないし、食べられるものを廃棄するなんてもってのほかですし、食べ残しはしない、自分に必要な分だけをいただくようでないといけません。(現代の人間以外の動物はそれが当たり前ですけど)

グルメとか、早いとか、手間がかからないとか、便利とか、それらを際限なく追求するのは「他の生き物の命だ」というのを忘れ、食べることができるのが当たり前になってしまい食への感謝がないからでしょう。
需要があるから生産側も生産性を向上させるために工場の生産ラインのような管理で動物の命を扱うことにもなっているのでしょうし、廃棄される食品はぐっと減るのではないかと。
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かけちから

懸税(かけちから)
伊勢の神宮では十月十七日に神嘗祭(かんなめさい)というお祭りがあり、この陛下からの初穂の束が瑞垣御門の柱に懸けられます。
この陛下の初穂を先頭に、瑞垣の周囲には、全国各地から献納された初穂の束が懸けられます。これを「懸税」(かけちから)と言います。
(瀬戸神社様のページによい説明がありましたのでお借りしました。)
http://www1.seaple.icc.ne.jp/setojinja/kouza/kouza02.html


こんな感じ。(伊勢赤福さんから)
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http://www.akafuku.co.jp/ise/?date=20121013

うちの神社でも毎年初穂を奉納いただきます。それを11月の秋祭りで神様に御供えして、その後いただいたり、授与品や、縁起物に使わせてもらったりします。
今年も初穂奉納いただきましたので秋祭りの前に昨日、懸税(っぽい感じ)でかけさせていただいています。
懸税(っぽい感じ)というのは、去年までは拝殿玉垣がありましたので、そこにかけていたのですが、拝殿補修工事をしたときに玉垣を撤去しないと工事できませんでしたので、玉垣を撤去しました。なので今は拝殿玉垣がないので(っぽい感じ)でということでした。(=^_^;=)ゞ 

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食神

食神とは四柱推命でつかう用語ですが、今日は別に四柱推命のはなしではありません。
今日、高校の同級生がふっと神社にたちよってくれました。今日たちよってくれたのは女の子です。私と同じ年だから実際には女の子ではなくおばさんですが・・・高校生の頃からの記憶があるので女の子と言ってしまいます(=^_^;=)ゞ 
その他にも最近は高校当時に一緒に悪さしていた男友達がいろいろ神社のことを手伝ってくれています。
学校を卒業してから10年間、会社勤めサラリーマンをしているときは誰ともほとんど会うことがなかったのですが、最近ちょくちょくと同級生と会う機会ができてきてうれしいことです。神社にもどってきてから急にそういう機会が増えてきてますから、こういうのも縁結びなんだろうなあと感じてます。


今日、同級生がよってくれたのは以前に頼んでいたことで進展があったのでと報告にきてくれたのでした。
なにを頼んでいたかというと、農業について。その人のお兄さんが農業を始められるらしいので、本格的に仕事として農業をする場合、体験的におこなう場合、農業されている方のお手伝いとしてさせてもらう場合、などなどいろんなパターンがあるでしょうし具体的なこと教えてもらいたいと頼んでいたのです。
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産土神

先日、神社関係者の連絡網でながれてくる情報のなかにネット上に掲載されている記事に「自分だけの神様“産土様”を参拝して、神様ネットワークを強化しよう!」というのがありますよぉというのがありました。
http://happism.cyzowoman.com/2012/08/post_1130.html

内容は自分にとっての産土神(うぶすな)様をみつけて参拝しましょう。そうすることで開運しますよ!縁結びにご利益盛大ですよ!というようなものでした。
これ、産土神社鑑定士の藤尾美友さんという方のお話しをもとにした記事だったのですが、
産土神社鑑定士というものがあるのにはちょっと驚きでした。すごい鑑定士があるんだなあと軽い衝撃を受けました。

藤尾美友さんのサイト
http://ameblo.jp/kaiun-ilu/

自分の産土神社を探してくれるというサービスのようです。
昔は地元の方々が氏神様、産土神様について各家、各里で親から子へと次々と受け継いでいっていましたから、皆しっている事でした。しかし現代では家族構成や地域のつながりなどが激変してそういうことを祖父母、親から教えてもらえなくなっていますから、こういうサービスができるのでしょう。

ちなみに産土神というのは、土地、村、郷をまもってくださる神様というような感じです。
古神道では自分を産まれたときから死ぬときまで護ってくださるもの、わかりやすい言い方だと自分につく「守護神」のような存在としていわれます。
ほかにも産土神社を探すサービスはあるようですが大抵、自分にとってオンリーワンの産土様を探します、と宣伝されているので、「守護神」というような感じで古神道のそれを取り入れているのでしょう。

これ仏教の(密教が主だと思いますが)守り本尊様に近いような感覚ですね。私は仏教は詳しくないのですが、灌頂(かんじょう)という儀式で、目隠しして曼荼羅に華を投げる、その華が落ちたところに描かれている仏様を自分の守り本尊とする。とあります。
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山は広いな大きいな2

前回からのつづきです。またどうしてもはずせない用事がつづき更新がとどこおって、ずいぶんと間があいてしまいましたが、再開です。

そもそも山は古代からパワーの源と考えられてきましたし、神聖なものでもありました。神の山、神体山のほかの普通の山(普通の山というのも言い方は変かもしれませんが)も同様に神様のパワーは山盛りです。

日本でまだ文字もなにもないその頃から山はすべての根源的なものでした。
狩猟のころは山で食べ物を得ていましたし、農耕がはじまっても山から流れる水のおかげで田畑がつくれます。農耕のサイクル(もともとの)は春に田植えなど作業をはじめ夏に成長し、秋に収穫します。冬は収穫がおわりなにもなくなりますが、また次の春になると新しい作物が育ち秋に収穫ができます。

小さな小さな種が大きく成長する、作物に実がなるというのは神様の力がはたらいているからだ、と考えていましたから春になると山から作物を成長させる力をあたえてくれる神様が田畑におりてきてくださり、秋に収穫がすむとまた山にかえってゆかれる、そんなサイクルができていました。
なぜ神様がおりてくるのが山からなのかは、たぶん人が生きるために必要だったものを山から得ていたからでしょう。農耕に必要な水も、食べ物も、家を建てるのに必要な材木も、燃料としてつかう木枝や草も山からです。

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